昭和二十年それぞれの戦(3)21~

東京工業大学1961年卒同期生の戦争体験記憶簿
『昭和二十年それぞれの戦』
(その3 21~)

21 NG Y◆桑名の家を空襲で焼かれ神明村で終戦放送を聴いて嬉しかった
               8月20日13:32
昭和20年には、私は三重県の桑名に住んでいました。父は、ニューギニアの戦地に出兵中で母・兄・弟との4人暮らしでした。当時、「敵機接近中」や「空襲警報発令」の警戒警報や空襲警報がラジオから頻繁に出、B29が何機も頭上を名古屋方面に向かって、唸り音をたてて飛んでいきました。警報が出ると、家の土間に掘った防空壕に入ったり、近場の避難地まで行って、大きい土管の中に逃げこんだりしていました。
 そして、7月17日に、桑名が全面空襲に遭いました。6月に四日市で空襲を体験した叔母から「天井に豆をまく音がしたら逃げなさい!」と聞いていたが、この夜寝ている時、まさに天井に豆をまくようなバラバラという音で目が覚め、「あっ、空襲だ!」と、びっくりして飛び起きました。この日は、たまたま空襲体験をした叔母も泊りにきており、「何も持とうとせずに、すぐ逃げなさい! 防空壕に入るのは危ないから田んぼの方に逃げよう!」と言って先導してくれました。
 外に出ると、総ての家の軒から、蝋燭のような火が立ち並び、昼間のように明るかった。照明弾や焼夷弾が雨のように降る中を、街路樹の陰に隠れながら、ひたすら田んぼに向かって逃げ、田植えで水のたまっていた田んぼに飛び込みました。田んぼの泥沼には大きな不発弾らしい穴もあり、滑り落ちそうにもなりました。夜明けなると空襲は止みましたが、横に子供を背負った母親がいて、「よく眠っていますね」と声をかけたら、「この子は死んでいます」との言葉が帰って来たのを忘れられません。
 この空襲で家を焼かれ、近くの神前村の養蚕農家の2階広間を、数世帯共同で借りて住むことになりました。このような田舎でも戦争の影響はあり、学校の下校中に超低空飛行した爆撃機が道に沿って絨毯爆撃して来たとき、あわてて道横の馬小屋に飛び込んだのも忘れられません。
 そして、ここで終戦を迎えることになりました。この日、比較的安全と言われていた午前中に外出して帰ってくると、何人かの大人達が集まって話合っていました。「どうも、天皇陛下のお言葉がラジオで流れたらしいが、何をいっておられるのかよくわからなかった!」、「戦争が終わったみたい!」、「勝ったのか負けたのか よくわからない!」というような話が聞こえてきました。このとき子供心に、勝ち負けよりも、「これで空襲の心配なく外に出られる!」と思えたのが非常に嬉しかった。そして当日の午後、半信半疑で空を眺めながら、友達と村内を歩いたのを覚えています。

22 F M◆長崎から疎開した佐賀で敗戦を迎え佐世保に移り米兵に出会った
                       8月21日1:45
亡父は戦艦武蔵を建造した三菱長崎造船所で、ディーゼルエンジンの設計をしていました。私たち家族は造船所内の社宅に住んでいました。しかし、戦況から危険になってきたと両親は判断し、当初は爆心地近くの城山小学校の学区内が造船所等空襲目標から離れているので安全と考え、引っ越そうとしたものの手違いで引っ越せなくなり、やむを得ず母方祖母の従姉妹が住んでいた佐賀市に家族のみ引っ越す事になったのが、終戦の半年前でした。
 父は単身造船所に残りましたが、造船所を目標にしていたと思われる原爆が風に流されたのか、浦上地区に投下された為に助かりました。しかし直後に爆心地近くで救助活動等をした為か被爆し体調を崩し、戦後の財閥解体指令も有り、戦後長崎での職を失いました。見渡す限り焼け野が原になった懐かしい長崎市の惨状は、終戦後間もなく父に連れられて見に行きました。
 佐賀市はB29大編隊の通り道になり、度々空襲警報が発令され、その度に集団下校し、警報解除後に弁当を持って再登校したものの、大規模空襲は受けませんでしたが、背後から遊弋していた戦闘機に機銃掃射を受け、屋内に逃げ込んで難を逃れる経験もしました。
 終戦のラジオ放送は、母がラジオの有る家に行って聞き、涙目で帰ってきたのを覚えています。敗戦となった以上敵兵が進駐してくるので、女子供だけで居るのは不安という事になり、2学期が始まる頃、祖母が単身守っていた佐世保の家に急遽引っ越し、父も長崎から佐世保に集結しました。佐世保市も大空襲を受けていましたが、幸い我が家のある一角は祖母達の婦人消防隊の活躍により、延焼を食い止めたと祖母が自慢していました。
 軍港だった佐世保には間もなく大勢の米水兵が上陸して来ました。何をされるか判らないと心配して、皆家の中で息を潜めていましたが、事情の判らぬ幼い弟が家の外に遊びに飛び出したところ水兵達に見つかり、追いかけられて家に逃げ込んだ弟に何かを投げつけられました。爆弾ではないかと母が言いましたが、よく見るとチューイングガムでした。その後は、あちこちで水兵達が子供達を見つけてはチョコレートやガムを手渡す風景が日常化しました。
 学校では教科書の墨塗が始まり、米軍放出物資による給食も受けました。近所のお兄さんは、米軍の通訳官としての仕事を始め、やがて上官の斡旋で米国留学もしました。祖母は自宅で華道教室をやっていましたが、このお兄さんに伴われた米軍将校が華道見学に来宅しました。その際、立派な乗用車に乗せて貰ったりしました。
 (以下は2018年追記)以上の文章を四年振りに読み返して、子供らしい呑気さで書いた戦争体験と改めて感じました。戦時中父が良かれと思って長崎に呼び寄せた祖父と年長の従兄が、原爆等の後遺症で戦後間もなく亡くなりました。私自身は数々の幸運に恵まれたと改めて感じます。

23 原 和照◆多様な体験情報の交換で出会う前の同期生間に奇縁もあったと知る 
     8月21日10:32
(風船爆弾について)私の既にセピア色に変色した古い記憶もまんざら誤りではなかったようです。10数年前、ニューヨークの例の9・11テロの際、日本の解説者がテレビで「アメリカ本土を外国から攻撃されたのは、これが初めてだ」という趣旨の解説をしていました。これを聞いて、あぁ、風船爆弾の話はガセだったのか、と思ったのですが、伊達さんの素早い対応により、この解説は正確とは言い切れない、と理解しました。良し悪しは別として、我々の大先輩の努力が報われた、ということですね。テレビ解説者が知らない位なので、一般には知られていなかったのでしょう。
 F・Mさんの近くに落ちた原爆を、遥か彼方の鹿児島の片田舎からTYさんが見た、ということも同期の仲間の不思議(と言うほどでもないか?)な縁を感じます。TYさんの、かぼちゃを逆さまにした、という当時感じたままの表現にも好感を持てます。もし、当時そのように感じなかったら、恐らくキノコ状の云々、という表現になったでしょう。
いろいろな面から楽しませていただいています。皆さんありがとう。

24 伊達 美徳◆高梁盆地で疎開児童と聴く敗戦放送に大人たちは黙りこくった
   2014年8月31日
みなさまの体験記「昭和二十年それぞれの夏」を、とりあえずまとめておきました。ここには実に多様な体験の記録があります。「向岳寮36」メーリングリストに垂れ流しのままではもったいないので、ここに「昭和二十年それぞれの夏」と題して、発信順に記したのです。
 そもそもの満州事変が起きた1931年から数えると、あしかけ15年もの長期間にわたった戦争が終わったのが1945年の夏、わたしたちは国民学校初等科の低学年でした。世の中のことが少しは分りかけようとしていた少年たちが、これから生きていく世界が激変する大事件に遭遇しました。その夏をどう乗り越えたのか、わたしの投げかけた問いに多くの仲間が反応してくださって、ありがとうございます。
 多くの仲間の終戦体験の話を読んで、わたしのように田舎町で空腹を抱えつつも平和に過ごしたものもいれば、原爆もある空襲や迫りくる外国軍から逃れる過酷な体験まで、実に多様にしてまさに歴史転換点のひとこまを展開していることに、衝撃を受け感銘さえもちました。
 なお、原爆については、向岳寮仲間の一人が、あまりに過酷な体験をしたことを、わたしはご当人から聴いています。彼はここには語っていませんが、わたしの他にも聴いた人は多いはずです。その妹さんが母親からの聞き取りを本にして出版しています。わたしは以前にそのことをブログに記しています。http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html
 暑い8月が終わったので、夏休みに宿題の話はこれくらいにしますが、まだ宿題を提出していない子は、その気になったら、向岳寮36MLに載せてくだされば、ここに追加記載します。また、訂正や追加などあれば、ご遠慮なくお寄せください。対応します。
 そのうちにまた、次のお題をだしますのでよろしく。ありがとうございました。
       (以下は2018年5月追記) 
 この「お題」を出したわたしの詳しい体験記「少年の日の戦争」の一部を引用します。
 「戦争疎開の悲劇もよく語られます。ところがわたしは、戦争疎開者を受け入れた側なのです。岡山県の高梁盆地のわたしの生家の神社には広い社務所があり、そこに兵庫県の芦屋市から国民学校6年生の女子学童学級が集団疎開でやってきていました。よくある疎開児童が田舎の子にいじめられたという話では、わたしはいじめる側のはずでしたが、その頃はこちらが幼くひ弱で、むしろ都会の女の子にバカにされる側でした。その子たちの疎開中に芦屋が米軍の爆撃を受けて親が死んだ子もいて、可哀そうなことと家族の話題にあった記憶があります。
 1945年8月15日、敗戦の放送は、その疎開学級が持ってきていたラジオで聞いたのでした。ラジオの普及していない時代でしたから、近所の人たちも集まってきて、社務所前の軒下あたりで聞いていました。わたしは社務所の広縁の手すりにもたれて、それを見ていました。もちろん、8歳の幼年には、なにが起きているかわかりません。だが、終わってから神社の森の外に出ていく大人たちの列が、一様に黙りこくってうなだれて歩く様子は尋常ではありませんでした。
 あの日の太陽の明るさと、人々の暗さはわが脳裏に鮮明に刻まれています。それが敗戦だと知ったのは、その後の親たちの会話からです。飛行機がやってきてビラを撒いたが、それには放送は嘘だと書いてあった、なんて話もあったような気がします」
(「少年の日の戦争」2000年より一部抜粋)
 その8月の末日、父が3度目の戦争から帰還してきました。父は本土決戦の戦場予定地だった小田原で敗戦を迎えました。1931年からの十五年戦争に3度も応召し、通算7年半も戦場で過ごしていた父の戦争は、ようやく終りました。やがて戦後農地改革によって食料源の田畑を失ったわが家は、超インフレの中で飢えの日々が始まります。わたしにとって戦争被害は戦後の飢えでした。       

25 K J◆奈良市内で玉音放送を聴き独特の抑揚の御声を記憶している
       2018年5月14日
父親が、軍属として戦地に行くことになり、昭和18年に、住み慣れた大阪・大宝寺町の薬局をたたみ、家族で奈良市内に疎開をしました。昭和20年3月に大阪大空襲があり、奈良市内の西側にある生駒山の夜空が夜通し赤く眺められたことを記憶しています。奈良市は空襲を受けなかったが、ある日、家の門の入り口の所に薬莢が落ちていたことがあり、機銃掃射はあったのでしょう。
 昭和20年8月15日の当日は、家族でラジオの前に座り、玉音放送を聞きました。内容は理解出来ませんでしたが、ラジオから聞こえてくる声は、初めて聞く独特の抑揚のある御声であったことを感じたことを記憶しています。大人達は、皆、無口でした。
 終戦(敗戦)後の記憶では、奈良市も食料難で、小学校ではみんなで蝗を捕りに行き、それを乾燥して粉にしてパンを作り、それが給食に出て意外外においしかったこと、配給のナンバ粉(トウモロコシの粉)を使ってパンを焼くことになり、手作りのパン焼き器(木製の箱の両側にブリキの電極を取り付けたもの)で、電気をいれたら突然フューズが切れたこと、畑で作っていたサツマイモの茎の部分をオシタシにして食べたら、意外に美味しかったこと等が思い出されます。
 大阪の家は焼失して、奈良市に住み着くことになりました。父親はビルマで戦死し、ビルマの土となって帰って来ました。 

26 大竹 博◆子供の目で見た『私の8月15日』
 2019年6月15日
私は、北海道の小樽市で生まれ、そこで育った。小樽市は、通称、天狗山と呼ぶ800メートルほどの山を背にして、樺太、千島諸島や満州を結ぶ主要貿易港として発展した町である。
 物心がつきだした四歳のころ、私の両親と姉妹の五人家族は市内の二階建ての家に住んでいた。内部を洋風に改築したこの家の近くの野原で、蝶やトンボを追っかけ、小川でザリガニを捕まえ, また母と蕗のとうやヨモギ、それにウドの芽を採りに出かけた。冬には、そりとスキーをして雪の中を転げまわって遊んだ。この楽しい生活がほんの数年で、崩壊していったのである。
二才年上の姉が、学校へ入ってまもなく、教育勅語を暗記するように言われ、毎日その練習を始めた。何度も繰り返される練習を聞いて、私も『朕思うに…』が暗唱できるようになった。勿論、何を意味するのか理解できなかった。
 そのうち私も、一年生になって、毎朝、近所の上級生に引率されて、学校へ通った。途中、空襲警報が鳴って、家へ引き返したこともあった。上級生は「天皇陛下の御真影への最敬礼、授業始めの『起立ッ、礼』の挨拶、講堂での朝礼での振る舞いを間違うと、往復ビンタの罰を喰らうゾ」と、注意してくれた。私の家から50メートルほど離れた所にある空地に防空壕が作られた。子供の目には強固に見えたが、2メートル超の積雪には耐えきれず、次の年の雪解け時に屋根が陥没してしまった。不思議なことに、誰も「壊れた防空壕を直そう」とは言わなかった。
 北海道は寒いので、熊笹はあるが竹は育たない。春、雪が解けだす頃、不思議な事が起こった。私の家の箒の竹の柄が抜き取られていたのである。病気勝ちの母をサポートしていた家政婦が、「柄のある箒がなければ仕事はできません」と、抗議した。実は、家にある竹は箒の柄だけなので、父が竹を抜き取ったのであった。同様なことは、町内の全家庭でも起きていた。しかも、抜き取られた竹の一端は鋭く削られていた。両親に幾度聞いても、何をするためのものかは、口をかたく閉ざして話してくれなかった。
 この頃、学校は休校になり、自宅で自習するように指示された。そんなある日、二人の陸軍兵が、私の家に割り当てられた。「妻と子供を家に残して来た」と言っていた。私の家に一泊して、翌日小樽の港から千島諸島へ向かう予定だとも漏らしていた。私の見たこともないようなご馳走が二人のために用意された。翌朝、二人の兵隊は、何度も礼を言って家を出て行った。数ケ月後、千島諸島での日本軍の玉砕が伝えられた。
 雪が解けた初夏のある日、家の近くの公園である行事が行われた。子供は公園に入ることはおろか近づくことも許されなかったが、遠くから聞こえる叫び声から、何か武芸の練習が行われたと知った。箒の柄で作った竹竿を持った鉢巻姿の父がこの行事に参加して、家に帰るやいなや部屋を閉め切って、母と何か大切そうなことを相談していた。何度聞いても何を話したのかは教えてくれなかった。数日後、学校へ引率してくれる上級生が、私の胸を突き破るような本当のことを話してくれた。「父さんと母さんが竹槍で突っ込む前に、俺達は死ななきゃならないんダ」と。
 その年の梅雨が明けた頃だったと思う。それは、ほんの一瞬の出来事だった。天狗山方面から、「ゴゴウ……」というもの凄い音の嵐が襲って来て、私の体を激しく揺すぶった。反射的に両手で顔と頭を覆った。両手の指の間から見た。黒い、巨大な蝙蝠のような物が、目に飛び込んできた。それは、近くの建物の屋根すれすれに、小樽の港の方に飛んでいった。しばらくして、ただ呆然と、眼下の小樽港を見ている自分に気が付いた。数日後、あれがB‐29という爆撃機で、超低空飛行で小樽の町を二つに割るような軌跡で飛び去ったことを知らされた。
 8月15日は、私にとって、忘れることのない日になっている。あの天皇陛下の玉音放送が終わった直後、私の家の周りは異常に静まり返っていた。何時もなら、下町の喧騒が聞こえて来るのに、それが無くなっていたのである。
 その静寂の中から、母が飛び出してきて言った。「博、よかったね。私達、死ななくてもいいようになったんだよ。よかったね。ヒロシ!!」と言って、強く手を握り締めてくれた。母の目から、涙があふれ出ていたが、それは嬉し泣きだということが、はっきりと分かった。
 数日後、あの箒の柄から作った竹槍は、いつの間にか処分されていることに気が付いた。         (初出:『Q人会誌2017』2017年 山岳部同期Q人会)

27 森川 陽:化工◆今の北朝鮮の南市で玉音放送を聴いた
                2019年7月11日
私も引揚組です。
 終戦の日、長春(当時の新京)からの疎開先、今の北朝鮮の南市の境界に大人たちが集まって、玉音放送か何かを聴いている状態を思い出します。
 その日以後、外に遊びに出た折、朝鮮の方々の私たちを見る目が、急に、厳しい恐ろしげな眼付に変わったことを覚えています。
 まもなく、長春への帰路につくのですが、後の噂では、当地を離れた1週間ほど後に虐殺があったとか。
 さもありなんとの思いが、今にして残っています。よほどの傷を朝鮮(あえてこの語を使います)の人びとの心に負わせたのだと思わざるを得ません。
 疎開の道々、帰路の道中は、それは大変なことでした。親たちは子供を守るに、たいへん苦労したのだろうと思っています。長春へ帰ってからの生活も多難でした。
 戦争の無益なことは、身に染みています。若い人に伝えることは大事なことだと思っています。

28 谷江 正舟◆戦争で家族がバラバラになり見附の叔父の家で終戦を迎えた
2019年8月19日
終戦の夏は新潟県見附町(今は見附市です)の叔父さんの所で、兄と二人でお世話になっていました。
 生まれは東京都江東区深川ですが、終戦2年前に赤紙が来て父は中国へ行き、母は実家の栃木県小山市へ幼児3人を連れて疎開しました。
 豪雪地帯の見附町は、自然豊かなのどかな町でした。虫取り、魚釣りが日常で「昭和20年の夏の日」も変わりなかったと思います。
 戦争体験は東京で防空警報訓練をしたこと、隣接する長岡市が空襲を受けて、真っ赤に染まった夜空を見たこと、それから父が戦地へ行き、家族がバラバラになったことです。
 終戦1年後に父が無事帰国して、帝国石油に復帰でき、新潟市で家族そろっての社宅生活が始まりました。このときが私の終戦です。

(最新追加、修正 2019/08/19)

全編リンク先

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(奥付 20190713時点)
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昭和二十年それぞれの戦(2019/07/11版)
著:東京工業大学1961年同期生
発行:向岳寮三六会

執筆:2014年8月~現在
web公開:2018年5月5日
冊子印刷:2019年7月7日(30冊+10冊)

編集:まちもり散人
お問合せは:伊達美徳宛のメールでおねいがします。
dateygあっとまーくgmail.com (あっとまーくを@に書き替えて)
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2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

伊達さん
「昭和20年の夏」に私の記録を早速取り上げていただき有難うございます。記載される記事はこの通りですのでよろしくお願い致します。
谷江正舟

まちもり散人=伊達美徳 さんのコメント...

谷江さん ではこれで公開を続けます。伊達美徳より