昭和二十年それぞれの戦(2)11-20

東京工業大学1961年卒同期生の戦争体験記憶簿
『昭和二十年それぞれの戦』
(その2 11~20)

11 瀧口 忠彦◆高崎から疎開した庄原で広島原爆投下の音を聞いた
           8月18日14:08
伊達さんの投げかけから、みなさんの厳しい体験談、神妙に拝読しました。なかに原爆の話もあったので、広島在住者として綴ってみます。
 ピカドンは、私は群馬県高崎市から広島県の北東のはずれ庄原市に疎開していた時である。疎開の道中は東海道線は危ないと、中央線経由でのろのろ帰ったが、列車はちょくちょく途中停車。朝どこかの駅舎でぶるぶる顔を洗ったぐらいの記憶しかない。原爆投下当日、70km程度離れた庄原でも、ピカ!と光ってから、しばらくしてドーンという音を聞いたように思う(姉たちの証言にて確認)。
 戦争も終わって高崎に帰る途中、バラックの広島駅から灰燼に消えた市内を見たことです。煤だらけになり、途中休み休みの列車で何とか高崎に戻った。ところが、高崎は焼夷弾にやられて散々だった。高崎では「風船爆弾」を作っていたために焼夷弾を投下され、町中を焼かれたと。
 その風船爆弾を作らせたと、親父が新聞紙上で徹底的に叩かれ、もはや高崎には住みたくないと、申し出たが認められず、(藤岡中学へ転籍命令あり)加えて、某党へ入党をするよう説得されたり、困惑の日々を過ごすが、結局半年休職、ようやく退職決まって、広島へ帰ることになった。
 子供のころはなんのことやら分かたなかったが、姉たちから教わった。職もなくルンペン生活の始まりである。それでも親戚の農家に助けられて、なんとかやってこれたのはまだ幸いであったようだ。厳しい生活だと思いつつも、ほかの人の話を聞いてまだいい方だったことを知る。一升瓶に玄米を入れて棒で突いたり、庭に芋畑を作って食ったり、籠につっかいぼうでスズメを捕まえ、食ったうまさは今も忘れられない。

12 NK Y◆今の行田で終戦の日を迎える直前に空襲に遭った
          8月18日15:20
終戦の日の事を振り返ってみましたが、何も覚えていません。当時埼玉県北埼玉郡忍町(現行田市)に住んでいました。父親は北支に出征しており祖母、母、弟と住んでいました。
 終戦直前には隣の市の熊谷が夜間空爆され、途中のわが町にも照明弾が落とされ昼間のように明るくなった。爆弾投下を恐れ隣人たちと近くの竹藪に逃げ込んだが糞が出たくなり、穴を掘って用を足した。変なことだけ覚えている。
 終戦日の件は何も覚えていない。終戦の件は母から聞かされ、これで助かったと思った。母の実家が徒歩30分位のところにあり、農家をしていたので食べるものには困らなかった。父は終戦後間もなく帰ってきた。自分にとって戦争の影響は少なかった方だと言える。

13 Y S◆台湾の田舎疎開先で敗戦の日を迎えてリュックひとつで引き揚げてきた
    8月18日16:14
戦前は台湾の屏東というところにいた。終戦1年ほど前には空襲警報も頻繁に出るようになり、少し離れた千歳村という田舎に疎開していた。ラジオなんかなかったようで、玉音放送は知らない。大人たちから戦争の終わったことを聞かされた。しばらくして親父が疎開先に軍隊から帰ってきたので、終戦を実感した。
 疎開から帰って半年ほどは、台湾人がいろいろな食材を持ってきて、衣類などと物々交換していた。日本に引き揚げることになり、持ち物は1人リュックひとつということなので、家の前にゴザを敷いて売れそうなものを並べてニワカ商人をやった。高雄の港の倉庫に集結し、1週間ほど待たされた。
 やっと番が回ってきて貨物船に乗ることができた。船底に雑魚寝で1週間、広島県の大竹港に着いた。ここに数日滞在。検疫でDDTを頭から振りかけられた。岡山県の久世に帰り着いたときは桜の頃で、寒かった気がする。

14 M H◆茨城の田舎町で平和に終戦の日を迎えたが3年間も闘病生活
          8月18日17:28
終戦の日のことは覚えていません。父母から戦況の話題を聞いたことがなかったように思います。
 家は、2階建の洋風建築の信用組合に隣接する社宅にあり、戦後は農協になり父は信用組合の理事長から職員になりました。食べ物は都会の人より恵まれていたと思います。そこで一度も引越しをせずに大学生になるまでいました。
 皆さんの波乱万丈の体験はすごいと思い羨ましく思いました。私の体験は、中学3年間の闘病生活です。手足の皮膚に内出血する病気(あとで血小板減少 性紫斑病とわかる)で欠席しがちで、運動はダメ、サナタリウムに入院しているような気分で、死ぬとは思いませんが、外を飛び回れるようになるとは思いませんでした。井伏鱒二の山椒魚や奥の細道に惹かれました。私の青春は、大学を卒業して富士通に入ったころから始まったと思います。

15 M S◆三次で終戦を迎えてその後の学校や社会の変化に驚く
           8月18日21:01
八月十五日といいますと、当地ではお盆のまっ最中で、一年生だった私は隣村の親戚に居て、昼どきに大人同士がヒソヒソと「戦争が終わったのかどうか、天皇陛下さんのお言葉がラジオであったそうな」とささやいていました。広島市から70キロも離れて居る現在の私が住んでいる地ですが、当時のラジオの受信状態は全く悪くて、ほとんどの人が聞き取れなかったらしいです。
 その終戦日(今でも敗戦日、などという言い方が言えない私です)から一週間前には、広島市の原爆の影響が我が町にも影響があって、この時期に私の父は、その妹のご亭主が広島市内へ原爆投下の当日に広島市に行ったはいいが、帰って来ず行方不明、兄である私の父に探索依頼をして、出かけたのがこの頃でした。
 広島市から、私たちの町の、お寺に疎開してきていた小学生の一団は、帰ってゆく先もはっきりせず、地元の私達小学生は接触もしていなかったけど、大人達は、「あの子たちはどうなるんだろう」とも噂していました。暑い夏の日の時期でしたが、どんよりとした雰囲気の夏休みでした。
 (以下は2018年4月25日追記)
 そんな八月十五日前後の記憶であっても、私にとっては、二学期からは大きな生活変化がありました。一学期の四月、小学校入学式には祖母から教わった通りに、一人ずつの面接らしき質問には「ハイ、大きくなったら兵隊さんになります」と言ったし、奉安殿の前では必ず深く頭をさげなくてはならなかったし、運動場では三年生以上の男子は配属将校から行進の訓練を受けていました。
 そんな日々も夏休みの戦争終結から二週間もたたないうちに二学期が来て、親父の仕事の都合で六十キロ離れている広島市の郊外に引っ越すことになりました。だから二学期からは新しい小学校で戦後の生活が始まりました。
 温品という村の親戚の離れ屋を一家四人で借りての暮らしとなりました。その親戚の家屋は大きかったので、広島市から焼け出された、二家族も住んでいました。広島の郊外と言っても、当時はまだ農村地帯なので、農家は米の収穫もあって食うには困らない環境ですが、我が家のようなサラリーマン所帯は米も配給、「非農家」と言う呼ばれ方をしていて、食べることでは、ひもじい思いもしていました。親父は少し離れた山すそを開墾をしてそこに植えるジャガイモやカボチャのために私には肥たごの片棒を担がせました。あの二百米の距離を数回も運ぶのでつらかった。
 小学校では、どこかに残されていたのだろう、軍隊の鉄かぶとを運動場の隅に集めてボコボコにして焼却、それを進駐軍がジープで乗り付けてきて、確認していました。友達の誰やらは「ギミーチョコレート」と言って貰ったらしいというのが羨ましかった。
 原爆が落ちてからの数ヶ月後、秋になって広島市内に親父につれて行ってもらった。ガレキだらけだったはずだが、あまり記憶にはなくて、強い印象は広島駅前の東側に闇市が出来ていて、そこを通り抜けるときには活気がありました。金があれば食べるものも買えたけど、見て通り過ぎるだけ。
 紙類も不足していたので教科書は新聞紙のザラ紙に刷られていて、ハサミを持参して切り抜いて使っていたし、古い教科書では黒い墨塗りもさせられました。
 昭和二十一年の終わりあたりまでは、とにかく腹が減っていたという記憶しかありませんでした。

16 X◆その頃の東工大Q研究室では風船爆弾の研究をしていた
             8月19日12:47
私はQ研究室の出身ですが、Q研究室では風船爆弾の研究をしていたそうです。昭和19年卒の先輩が以下のような手記を書いておられます。
 「秘密兵器○ふ研究余録:陸軍では風船爆弾を「○ふ」と呼んだ。気球の皮膜は、和紙にこんにやくマンナン水溶液をコーティングして調製した。Q研では、この調製条件と皮膜の機械的性質及び水素透過速度との関係を追求した。この頃、工大に異変がおこった。在宅のお嬢さん方が大挙して工大に押し寄せたのである。学生が動員されて、ひっそりとしていた本館が一斉に賑やかになった。工大は女子大に変身した。ある日、私の所に見知らぬお嬢さんがやって来た。私の妹の親友の妹で、今回航空工学科に配属されたので挨拶に来たのだった。B研にも5人のお嬢さんが配属され、○ふ研究を手伝うことになった。実験室に、時ならぬ大輪の花が咲き乱れた。連日の実験で疲れ果てていた学生たちは、にわかに元気を取り戻して、研究が加速された。学生たちとお嬢さん方との交流が進み、やがて、お似合いのカップルが誕生し、めでたくゴールインした。上述の、ややこしい関係のお嬢さんも、配属先の学生と結婚した。情ない話だが、私の周辺には、それらしい気配は全くなかった」

17 瀧口 忠彦◆父が校長だった高崎の女学校で風船爆弾を造っていた
           8月19日17:46
風船爆弾記:うちのおやじは高崎の女学校長をしていて、校舎を改装して外壁を真っ黒に塗り、校舎内で女学校生達に風船爆弾作りをさせていたらしい。同地は和紙の産地でもあったとか?(太田の中島飛行機工場も近い、また火薬工場も近くにあったとか?)、その真っ黒な木造校舎の脇の溝を挟んですぐ近くの民家まで焼夷弾に燃やされた。
 飛行機の代わりに、この風船爆弾が無事に北米まで飛んで、アメリカ大陸を焼き尽くす予定だったのか? そういう計算をしたのは、工大生か?。それでも工大生と一緒になれたご婦人がハッピーであったことと信じる。

18 原 和照◆風船爆弾の効果のほどはどうだったのだろうか
8月19日20:22
小学校の時、友人に聞き、最近テレビでもチラっと聞いた気がするので、これは有名な話で既にご存知かもしれませんが、「風船爆弾は実際アメリカに飛び、少なからぬ被害を与え、アメリカは非常に恐れた。そこで箝口令をしいて全く影響がないように見せかけていた。それにまんまと日本は引っかかって、風船爆弾は効果がない」と思いやめてしまった、という話があります。真偽のほどは責任持てません。

19 伊達 美徳◆風船爆弾はアメリカを恐怖におとしいれていた
              8月19日20:22
風船爆弾についてこんな動画がありますよ。
https://www.youtube.com/watch?v=MSHrAk3Jb28

20 辻田 勇二◆疎開先の鹿児島の山奥から長崎方面に原爆カボチャ雲を見届けた
     8月19日23:19
生まれ育ちは鹿児島の片田舎です。終戦前、これ以上の山奥に人は住んでいないようなところに疎開で引っ越ししていました。焼夷弾で町全体が類焼するのを防ぐために、家の間引きに会い、見事に家が壊され、山奥にテントで引っ越ししたのをいまだに鮮明に記憶しています。引っ越した山奥から、北の方向に八代海がかすかに見え、その先に天草島がかすかに見えていました。
 日にちははっきり記憶にはありませんが、夏の暑い朝、雲一つない暑い日の朝、木陰の多い木に登り、八代海の方向を見ると、カボチャを逆さまにしたような雲が、天草島の上の方に見えました。大声で近所にカボチャを逆さまにした雲があると木の上から叫んだけど、何せ山の中のせいでか、誰にも声は届かなかったみたいです。終戦のちょっと前くらいの記憶はあります。しかし、その雲が見る見るうちに形が変わっていくのも記憶にあります。この時はそれでおしまいです。
 小学4年生の時、学校で長崎の原爆の話を聞きました。その時聞いた雲の形が、2年前に見た雲ではないかと地図を調べたら、確かに長崎の方角です。変わりゆく雲の形からしても、まさに長崎の原爆の雲でした。玉音放送は山の中では聞きませんでしたが、終戦のきっかけになる爆弾の雲は見届けました。

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