昭和二十年それぞれの戦(1)01-10

東京工業大学1961年卒同期生の戦争体験記憶簿
『昭和二十年それぞれの戦』
(その1 01~10)

01 伊達 美徳◆1945年8月15日あなたはどこで何をしていましたか 
     2014年8月16日16:55  
終戦記念日の昨日、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に、暑さの中を物好きにも野次馬徘徊してきました。
 69年前の8月15日は、わたしたちは国民学校初等科の低学年でした。
あなたは、その日のお昼の頃は、どこで、どうしていましたか?
 わたしは岡山県の高梁盆地の生家の神社で、芦屋から来た疎開児童たちや、近所の人たちとともに、あのラジオ放送を聴きました。聴き終わって神社の森を出ていく大人たちの列が、一様に黙りこくっていたことが強い記憶です。
 昨日の靖国神社と千鳥ヶ淵の風景を、お暇ならご覧ください。http://datey.blogspot.com/2014/08/983.html
 
02 塚本 行:窯業◆濃尾平野の僻村で集った大人たちと終戦放送を聴いた 
8月16日21:36
当日は夏休み。当時の住まいは、濃尾平野の真ん中にある農村地帯の100戸ほどの集落。名鉄電車に乗るには、4kmほど田んぼの中を歩くしか手段がない田舎。食料にはそれほど苦労しなかったように記憶している。
 子供の遊び場として集まる所は神社境内、誰が伝えたか記憶はないが、ラジオのある家に集まれとの号令。大人に混じって終戦の玉音放送を聴いたが、正直言って中身は理解できず、「負けたんだ」というため息ともつかぬ声を発しながら、皆元気なく家に帰ったようだった。こんな田舎でも、艦載機による一斉射撃がときどき学校帰りの子供たちにも襲い掛かり、それがなくなることが一番うれしかったように思う。
 2学期で登校したときに一番ショックだったのは、いつも拝礼していた奉安殿が取り壊されていたこと。
 その意味を理解できないまま、教科書も墨で塗りつぶし、世の中がずいぶん変わったんだと何となく意識させられたようだ。

03 森 猛◆豊橋の空襲で焼け出された掘立小屋で敗戦を知った
            8月16日23:15
1945.8.15の所在:私はその日豊橋市内に居ました。家は空襲で焼け、同じく焼け出された親戚が作った掘っ立て小屋に居候していました。15日を思わせる記憶は何もありません。居住していた記憶と期間から居場所を推測したものです。ラジオは無く、玉音放送は聴いていません。
 翌日以降に近所のオジサンが「日本は負けたソウダ」と語っていたのは覚えています。空襲警報のサイレンが無くなり、正午に吹鳴されるようになったのが、すごく新鮮でした。

04 MT T◆空襲と艦砲射撃の浜松で赤痢に罹って入院していた
            8月17日8:10
終戦日の記憶は、はっきりとは覚えていない。前後の状況から、推測するしかない。8月15日の居場所は、浜松の「ひ病院」、要するに、隔離病院。空襲で焼け出されて、住んでいたバラックの近所の人が死んで、そこで出た葬式まんじゅうを食って、同じく「赤痢」になってしまって、隔離病院に担ぎ込まれた。
 担ぎ込まれたというのは正確でない。乳母車に乗せられて、あの一国を(東海道)行ったけど、その直前にあった、「艦砲射撃」によって、道路は穴だらけ。おふくろと兄貴が、乳母車に竹竿を通して、前棒ー後棒で担がないと進めなかったのをおぼろげながら覚えている。ハハ、ハハ、やはり担ぎ込まれたのだ。
 「病気療養」中に終戦。翌日ぐらいに(?)艦載機が来襲。(飛んできた)電線のすぐ上くらいの高さを飛び回り、艦載機のパイロットの顔と黒いマスクがはっきり見え、笑っていたような感じを受けたのを鮮明に覚えている。これで、この高さまで来ても、機銃掃射をされずすむのだと感じたことも覚えている。
 空襲で焼け野原になり、艦砲射撃で、穴だらけになり、赤痢で、隔離された時代。何回か死にそうになったことは、思い出したくはないけど、こんな経験は今の世代にはさせたくないね。

05 原 和照:窯業◆東京から疎開した松江で玉音放送を家族で聴いた
8月17日9:13
4月8日(昭和20年)の夜に、今の旗の台駅のすぐ近くの我が家から、松江に強制疎開。記憶が確かなら翌4月9日に、例の(と言っても知らない方も多いでしょうが)〝東京大空襲〟があり、東京は焼け野が原になりました。我が家は何とか焼けなかったようですが、もし疎開していなければ防空壕の中で恐ろしい一夜を過ごしていたことと思われます。
 その前にも何十回と防空壕で爆弾が落ちる音を聞いていましたが、小学校低学年と幼かったためか、大人ほどには怖さを感じていなかったようです。
 東京と違って松江は空襲もなく、平和でした。それでも学校では戦時教育が行われていました。
 今でも思い出すのは給食のとき、節をつけて、意味は分からないまま「コノゴハンヲイタダケルノワテンノーヘーカヤリョーシンヤヘータイサンノオカゲデアリマスコノゴハンヲイタダイテオクニノタメニヤクニタツヒトニナリマスイタダキマス (このご飯を頂けるのは、天皇陛下や両親や、兵隊さんのお陰であります。
 このご飯を頂いて、お国のために役に立つ人になります。頂きます)」と言ってから(というより唱えてから)、米がほとんど入っていない雑炊(給食はこれだけ)を啜って、無くなると弁当箱の底や蓋についている汁を舌で舐めていました。
 懐かしい思い出です。こういう粗末な食事を食べていたお陰で今、健康に過ごせているのだろう、と思っています。
 8月15日ですが、父と二人の兄(中学生)がラジオの前で正座して聞き入っていました。近寄りがたい雰囲気だったので、そっと逃げ出しました。玉音放送が終わって、昼食時に父の話で戦争に負けたことを知りました。「勝つはずだったのに負けたんだ」と思っただけで、今後の生活が大きく変わることまでは、理解できなかったようです。
 その後は皆さんと同様、今では想像すらできない、ひもじい貧しい毎日を過ごしました。

06 K N◆香川県三本松町の自宅で敗戦放送を近所の人たちと聴いた
8月17日10:34
思えば昭和32~3年ごろ寮で話が出たのではと思いますが、あの時以降の方がはるかに長く生きてきたのだなあと感慨ひとしおです。皆さんが疎開した先よりもっと田舎に生まれ育った小生でも、戦争の記憶はあります。
 姫路へ向かうB29の編隊、気まぐれグラマンが子供を機銃掃射した話し、防空壕を掘るのに手伝ってくれたお兄さんが空き巣に化けた話。何より、半農、半漁の町で少ないサラリマン家庭、食糧不足には一番困った。
 昭和20年8月15日、香川県大川郡三本松町立三本松国民学校2年男子組でした。勿論夏休み中でこの日は朝から家にいました。父は学徒動員の引率か、学校か家にはいなかった。大通りから枝分かれした小道に住宅が7~8軒あったが、母が皆さんを呼んできて、という。
 鴨居の上の神棚様の所にラジオが置いてあった。スピーカーボックス位で、縦のカーテン窓、その下に口をへの字に結んだようなダイヤル窓、その下に山形に配置された3個のボタン。左からON/OFFボタン、ダイヤル合わせ、ボリュームである。縦型国民普及型(4球)と言うらしい。勿論後々知った。
 「ジッジー、ジッジー ニュースを申し上げます」と言うやつがしょっちゅうなっていた。そこの半分畳み、半分板敷の部屋に7~8人がちょこんと座っていた。私には、内容は一切不明。ただ異様だったのは、近所で一番怖い、いつも子供を捕まえては叱っているおばさんが、目をしょぼしょぼさせながら帰って行ったのが記憶にある。
その後の小学校、中学校時代は偏向教育があったかどうかは、人それぞれの考えでしょうが私には、大変楽しい、自由な子供時代ではあった。

07 笠原 弘至◆満州の延吉で玉音放送を聴き混乱の中を助け合って引き揚げてきた
8月17日13:32
私は満州で終戦を迎えた。満州東北部の北朝鮮国境から数十キロ離れた「延吉」にいた。現在は縁辺朝鮮族自治区の中心都市で脱北者が目指す場所です。日本人は周辺を含めて三万人位住んでいたという。
 父親は満州国官吏だったが5月末の「根こそぎ応召」で不在、家族5人で官舎に住んでいた。B29が上空を通過していたが空襲はなかった。ソ連軍はまだ到達していなかった。広島に新型爆弾が投下されたという話を大人たちがしていたことを憶えている。
天皇の玉音放送は近所の人と聞いた。戦災に無縁だったのでその後しばらくの間、周りに変化はなかった。
 突然ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵のやりたい放題のほか朝鮮人、中国人の報復行為がはじまった。また満州開拓団や青少年義勇兵、関東軍兵士などが助けを求めて多数やってきた。混乱状態がはじまった。
 しかし、こういう無政府状態にあると心ある世話役が現れ、日本人は結束して冷静に対応していたと思う。学校は閉鎖されたまま一年余を過ごした。私は終戦時8歳だった。日本円が暴落したであろうなかでどうやって生活できたのか母に聞くチャンスを失った。 その後ソ連軍が撤退し、アメリカの援助により私たちは翌年十月福島県へ引揚げることができ、私は一年落第して小学校に入った。

08 N I◆朝鮮の平壌で敗戦を迎えて大混乱の中を苦労して引き揚げてきた
 8月17日20:33
私は終戦の日は、朝鮮の平壌(今の北朝鮮の首都)にいました。父が平壌にあった紡織工場の役員をしていたからです。50軒ほどあった府営住宅(住んでいたのは日本人のみ)の一軒に父母と兄・姉・私の5人で住んでいました。8月15日の記憶は殆どありませんが、大人はラジオを聞いていたようです。聞いた後も「大変だ」と動揺していたとの記憶はありません。
 それからの1年間は事態が一変しました。終戦の数日後にソ連兵(ロスケと言っていた)が進駐して来て、日本人の住宅に来て、家財道具(最初はラジオ:「ラジオ、ラジオ」と言いながら)を掠奪していきました。
 数日後には府営住宅を追い出され、やむなく、近所の競馬場の傍にあった私の小学校の友達の家に同居させてもらいました。しかし、そこも数週間で追い出され、1kmほど離れた6畳間3室のボロ家に3家族で暮らすようになりました。被植民地住民であった朝鮮人は、日本人に対して掠奪や暴行などの行動は起こしませんでした。今の韓国大統領の様な日本人に対する敵意も感じませんでした。
 衣食住(特に食)に大変だったであろうと思いますが、小学校2年生だった私にはその記憶はありません。終戦から1ケ月後くらいには、ソ連兵も幹部が進駐して来てその行動も落ち着きました。 私の母は洋裁が得意(若い時は東京に住んでいたので目黒のドレメを出たのかな?と想像しています)だったので、ソ連兵の幹部の官舎に行って、奥さん連中の洋服を縫ってお金は勿論、食べ物もいろいろもらってきていたのが大きかったように思います。男にはコエタゴ担ぎくらいしか仕事が無かったので、助かりました。
 話を帰国(「内地帰り」と言っていた)に移します。ソ連が支配していた北朝鮮からは合法的に帰国する手段はありませんでした。昭和21年の8月2日に、同じように難民と化していた日本人家族7~8世帯30人ほどが、徒歩で40里(160km)南の38度線を越える為平壌を出発、途中雨にあったり、川を裸足で歩いて渡ったり、との行程をただ背中と手に荷物を持って歩きに歩きました。
 途中、銃を持ったソ連兵に会ったりもしましたが、特にトラブルもなく、昭和21年8月15日に38度線(小高い山)を越えました。38度線を夜に越えて、南朝鮮の原っぱで寝ていたら、アメリカ兵が来て難民キャンプに連れて行ってくれました。難民キャンプで頭からDDTを掛けられ、殆どトウモロコシの食事を与えられ、2~3日過ごした後、汽車で釜山まで送られ、釜山からは汽船で9月2日に博多に着きました。8月15日の話が、9月2日までの話になってしまいました。
 蛇足ですが、平壌は空襲は皆無でした。庭に防空壕も掘り、空襲に備えていましたが、たまにB―29、ロッキードとおぼしき飛行機が上空を飛んで行くだけでした。住んでいるのは日本人より朝鮮人の方がはるかに多いのですから、空襲をしないのは当然だったのでしょう。
 もう一つ蛇足を。上記のように私は小学校2年生で1年間浪人しました。その為、現役入学の人より1歳年上なので、大学入学で1浪したと誤解されることが多く、あまり良い気分はしません。
 私は日本のマスコミの報道は戦争被害と言えば、「広島・長崎の原爆」と「東京大空襲」ばかりなので、何時も腹立たしく思っています。国内でも他の都市の空襲もあり、中国その他の国での難民も沢山いる筈なのに殆ど報道しないのが腹立たしく、今回、そのストレスが長い話になった理由だと思います。

09 山崎 嘉彦◆名古屋から岐阜県郡上郡に疎開していて敗戦を聞かされた
         8月17日22:39
国民学校2年生の終戦は(いや敗戦)岐阜県郡上郡で迎えました。おやじの勤め先が疎開したのでそれに伴う引っ越しでした。名古屋に比べ田舎はのどかでした。8月15日はよく晴れた日だったことを覚えています。戦争に負けたと誰か、多分親から聞かされたような気がします。その後、負けたのではない、無条件降伏だといわれ負けたよりは少しはましなのかと思いました。
 それからは意味も分からず教科書の一部分をのりで張り付けたり、戦争ごっこを禁止されたり、とにかくわからないことずくめでした。そして御多聞にもれず空腹、それから早や69年、本当にそんな時代があったのかなあと思う最近です。

10 K A◆台湾で終戦を迎えて翌年に米軍駆逐艦で鹿児島に引き揚げてきた
         8月18日7:27
皆さんの状況を読んで自分も思い出してみようと思いました。生き証人の母は、98歳で近くの民間の介護施設におりますが、穏やかに息をしているのみです。農家3男の父は、田んぼを与えられるのは長男だけというおきてに従い、農学校を卒業し、台湾の大日本製糖のサトウキビ農場にいましたが、召集されそのままでした。
 母、小学校1年生の私、3歳の弟3人が、農場から離れた疎開地にいました。台湾は、日本が善政をしたこと、フィリッピンの次、台湾を飛び越して沖縄に戦場が移ったため、米軍の攻撃はほとんど感じなかった。
 昭和21年3月に、米駆逐艦で鹿児島に上陸。DDTを体に浴び、汽車で4~5日かかって、まだ冷たい山形駅(母の実家)に着くまでの記憶が抜けています。


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